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「ニジェール共和国における伝統教育と社会 ザルマ社会のイスラーム教育」, 大塲麻代(編)『アフリカの多様な教育 ミクロの視点を中心に』未来共生リーディングス.Vol.5. 大阪大学未来戦略機構第五部門

注)図表は抜いてあります。

1. はじめに:イスラームと教育

本章ではニジェール共和国の西部に分布するザルマ社会における伝統教育、イスラーム教育についてのデータを提示しながら、イスラームが根付いた西アフリカ内陸部のイスラーム社会とそこにおける伝統教育(イスラーム教育)のあり方について考察する。 アフリカは若い大陸だと言われるが、ニジェール共和国においても2010 年当時で人口の49.2%が15 歳以下というように、若年者人口は人口の半数を占める(Ministre des Finances2011)。すでに90 年代には若年者人口の増大と質量に渡って必要性を増す公的教育インフラの脆弱さのアンバランスさ、さらに、教育を保持していくに必要なアフリカの諸国民国家の力量に警鐘を鳴らす研究者もいた(小馬 1992)。近年、これらの懸念が現実化し、国際社会を巻き込んで人口増加に伴う教育問題への対処にあたっている状況だと言えるだろう。こうした国内外の公的、非政府の両機関の努力が実り、初等教育へのアクセスは飛躍的に改善され、都市偏重の傾向はあるものの、村落部にまで公教育は次第に浸透してきている。しかし、こうした急激な制度的変容は時にそれまでの社会システムにひずみを生じさせ、ある集団を周縁化させる。伝統教育もまさにこうした局面を迎えており、社会変容の象徴的一側面を見て取ることができる。 伝統教育が迎えるこうした局面を考えるうえで、まず確認しておかねばならないのが、地域社会の文脈で教育をどのように考えるか、ということである。学校教育制度の浸透が他地域に比べて遅れをとったアフリカ大陸には、果たして教育がなかったかといえば、そのようなことは全くない。たとえば、人類学で長年研究が進められている、通過儀礼の文脈は社会と子どものかかわりを考える上で大きな示唆を与えてくれる。各地で行われる通過儀礼は、たとえば子どもをそれまで所属していた組織から分離し、過渡期を経て(「おとな」の世界に)再統合させる(ヘネップ1909)。 加入儀礼が「おとな」の世界への教育の過程だとすれば、通過儀礼のプロセスに教育的機能があったことは間違いない。教育を「個人が、他人との相互行為を通じて、自分の属する集団または社会に適合的な理想や行為のパターンを内面化する過程、即ち社会化過程」(小馬1992:162)と広義に定義すれば、成人儀礼や一部の宗教儀礼なども教育に含みこまれていくと言えるだろう。こうした非定型な教育システムがあった一方で、イスラーム教育はより定型化されていたアフリカの伝統教育とも捉えられる。ニジェール共和国のザルマ社会は、まさにイスラームが浸透した地域であり、イスラームが人びとの生活の深部にまで浸透している。こうしたイスラームの浸透を強く推し進めたのが、イスラームの聖典クルアーン(コーラン)を通した教育、即ち、「クルアーン教育」であり、本章ではニジェールの一地方の事例を挙げ、クルアーン教育を中心とした現状を報告する。 西アフリカのイスラーム化の歴史的過程については、歴史学や人類学で数多くの研究がなされてきた。これらの研究の多くが、イスラームがいかに西アフリカの人びとに受容されたか、という問題意識の下で進められ、従ってイスラームと社会、教育の関係についても、多くの研究から読み取ることができる。たとえば、Lewis が「イスラーム教師とイス ラーム通商民は一般的に同じ人びとだった」(Lewis1966:20)と述べているように、イスラーム化を担った人びとは、専業的なイスラーム知識人ではなく、知識人で、かつ通商民であった人びとによるものであったことが示されている。 こうした、多面的な社会的役割を担ってきたイスラーム知識人の活動は、「聖職活動と商業活動とは単に併存していたのではなく、相互に依存しあい、有機的に組み合わさって共同体を成立させていた」とされる(坂井2003:130)。すなわち、彼らの社会経済的活動と教育的活動が不可分であるわけであるから、「伝統」教育はその社会的な文脈から切り離して考えられるべきではなく、その社会の文化的背景から捉えられるべきであろう。 これらを踏まえ、もう少しイスラーム世界における教育がどのようなものであったのかを見ていこう。イスラームが成立したアラブ世界は言わずと知れた乾燥地を中心とした地域である。当然、大文明の生まれた大河川周辺地域とは異なり、天水や灌漑を利用した農業を基盤とする定住は困難であり、人びとは牧畜、遊牧生活と言った遊動的な生活を送ることとなる。アラブ世界をフィールドとした片倉は、この世界の遊動性に注目し、「移動文化」と呼ぶ。片倉はその著書の中で「移動文化」はイスラームの学問にも反映されていると指摘する。アラブ世界で「学問の習得方法のもっともいいのは、うごくことであるといわれ、歴史的にみても、高名なアラビアの学者たちは、みな各地を転々として学んでいる」(片倉2008:14)として、イスラーム学者が移動し、遊学の中で知識の蓄積を行ってきたと述べている。本章でも論じていくように、西アフリカのイスラーム世界のクルアーン習得の過程においても、「移動文化」は色濃く表れている。 しかし、伝統的村落社会への西欧式の教育制度の浸透、言い換えれば近代化の浸透はグローバル化する現代社会においては不可逆的な時代の潮流である。ただ、かといって、すべてが急に近代化してしまうということではなく、本章で述べるような「伝統教育」はこうした時代にも形を変え、もしくは、時代に抵抗しながら生き残っている。こうした背景を鑑みれば、「伝統教育」を過度に評価し、単純な伝統主義に陥ることはもとより、近代教育を無条件に礼讃するような態度も改めて見直す試みとしていきたい。

2. 調査概要と本章で用いる用語

2. 1. 調査概要

本章の基となる調査は2012 年5 月から断続的に約3 か月間、ニジェール共和国西部のコロ県ダンチャンドゥ・コミューンとその周辺の地域、通称ファカラFakara 地方の48 カ村において行われた。ファカラ地方の民族構成はマジョリティの定住農耕民ザルマZarmaと牧畜民フルベFulbe である。ファカラ地方はサハラ砂漠南縁部のサーヘルSahel 地帯に位置し、年間降雨量は500㎜前後とされる半乾燥地帯である(Department de Kollo Commune Rural de Dantchandou 2009)。 ファカラ地方の土地は砂質土壌で決して豊かなものではない。6 月から10 月にかけての雨季に主要作物であるトウジンビエやソルガム等雑穀の天水農業がおこなわれる。こうした環境のなか、ザルマはトウジンビエを中心とする農耕と小家畜を中心とする牧畜を生業とし、フルベはウシとヒツジを中心とする牧畜を行う一方で、ザルマから土地を借り入れながら行う小規模な農耕を行っている。 調査手法は半構造化されたインタビューと文献によるものである。使用言語はフランス語で、現地で約20 年にわたって農業技官を務めるAmadou Sodja 氏を助手として、現地で一般的に使用されるソンガイ= ザルマ系言語とフルベ語への翻訳を同氏にお願いした。現段階においては広域調査が終了しており、その後、文化人類学的な参与観察を行う予定であったが、2012 年後半から激化したマリ情勢の不安定化に伴い一部を中断している状態である。よって、提示できる調査データは、これまでに行われた初期調査としての広域調査で得られた一部のデータを提示するにとどまっている。

2. 2. 用語説明 次に、本章で使用する用語を紹介しておきたい。 まず、クルアーン学校で教師にあたる人物はマラブーMarabous(仏)もしくはアルファAlfa と呼ばれる。本章では、より一般的な通称であるマラブーを採用する。マラブーは「導師」と訳されることがあり、クルアーン教育以外にも、地域社会の紛争を解決し、宗教的な助言を与えるといった多様な社会的役割ももつ。先述のイスラーム知識人とはここで言 うマラブーのことである。マラブーの社会的役割を分析した伊東は、マリのジェンネの事例から、マラブーは日本語の「先生」のような存在である(伊東2009)と述べているが、私たちの感覚に惹き寄せれば、これくらいの表現が近しいであろう。 次に、イスラーム教育が行われる学校組織の用語についても紹介しておきたい。クルアーン教育が行われるのは、クルアーン学校Dudal(フルフルデ、ザルマ)のほか、マドラッサMadrassa1、フランコ= アラブFranco=Arab2 において実施されている。後者2 つの形態が公的な認可、もしくは助成を受けているのと対照的に、クルアーン学校はマラブーによって自発的に開かれた、いわば日本の寺小屋のような施設のことを指すと考えていただければよいであろう。 最後に、クルアーン学校の生徒の二つの形態について説明する。まずタリベTaribé と呼ばれる生徒がいる。彼らは主にマラブーの家に寄宿して、マラブーと寝食を共にしている。 タリベの生活は本章で詳細するのでここでは用語のみに触れておく。しかし、近年タリベ形式の生徒は減少傾向にあると言われ、代わって自宅から通うフォンデFondé と呼ばれる生徒が増加傾向にある。 3. ファカラ地方のクルアーン学校と小学校の比較

3. 1. ファカラの小学校教育

フランコフォン・アフリカではフランス式の公教育が浸透しており、近年の開発援助により、その数は増大している。「はじめに」でも述べたように、教育の近代化は不可逆的な流れであり、伝統教育を考えるうえでも、この潮流を無視することは現実的ではない。包括的にこの地域の教育を理解するため、伝統教育を論ずる前に、まずニジェール共和国、およびファカラ地方の初等教育について概観しておきたい。 アフリカ全体の教育の流れを簡単にまとめれば、植民地以前にはキリスト教宣教により教育がもたらされ、ここでは、アフリカの人びとをアフリカ的なものから引き離すことが目指される。1930 年代になってようやく植民地政府が教育に力を入れ始めるのだが、この時代は読み・書き・計算が主体の教育であった。そして、1960年代のアフリカ諸国の独立後に「国民」形成のための教育が実施される(小馬1992:171-175)。ニジェール共和国における学校教育もこうしたアフリカ全体の中に位置づけられる。 ニジェールの学校教育はフランス植民地期に起源をもち、1897 年にフランス植民地政府により始められた。この時代の教育は土着の思考、価値観をフランス的なものに近づける、すなわちエリートを養成する教育であり、非常に限定的なものであった。公教育が一般的になるのは、1960 年の独立前後のこととなる(Meunier 2009: 20-21)。グラフ1 は1997 年から2012 年までの初等教育粗就学率をまとめたものである。このグラフから、90 年代後半に24.6% だった粗就学率は、10 年後の2005年の時点において53.5%と半数を少し上回る程度まで到達している。さらに、2005 年以降現在に至る間に就学率は約20 ポイント上がり、72.9%に上昇しており、最近15 年間のニジェールの公教育の普及は目覚ましいものがある。 最後にファカラ地方の公立小学校についてみていきたい。2012 年10 月の調査で、ファカラ地方全48 ヵ村に公立小学校は24 校存在することが分かった。この地方の学校建設は1960 年の独立年に最大聚落のダンチャンドゥDantchandou の校舎が完成したのを皮切りに、1974 年、1998 年、2001 年に数校単位でコンクリート製の校舎が作られた。しかし、学校建設が決まり、教員が派遣されてきても、教材がないなどと言った状況があったといわれる。現在でも次第にコンクリート製の校舎が増えてきてはいるものの、必ずしも6 学年分の教室が揃っているわけではない。また、一部の校舎はミレットの茎を建材とした仮の校舎であり、これらの校舎は地域の人びとによって用意されている。こうした設備上の制限があることもあり、教員によっては、午前と午後のクラスに分けるなどの努力がなされている。 公立小学校では、教員自らが学区内の父母に対して生徒の募集をかける。教室数や稼働教員数に応じて必ずしも毎年募集がかけられるわけではない。表1 に示したように、ファカラ地方の平均クラス数4 は2.92 であり3 教室に満たない。つまり、2 教室の学校もあり、昼夜2 つに分けたとしても4 クラス分しか賄うことができない。そのため、個別の学校を見ると、2 年または3 年に一度しか募集がかけられないことにより学年毎の偏差が見られる。今回の調査で得られたデータでも、学年が高くなるほど就学者が減少していくアフリカの村落部に一般的に見られる典型的な生徒 数偏差も確認できる。 しかし、調査中にしばしば聞かれたこととして、辞令を受けたはずの教員が赴任しない、教員への給与の未払いなどにより、クラス自体が成立しないことがしばしば起こっていることを付記しておきたい。

3. 2. イスラーム知識人とクルアーン学校の経営

それでは、この地域の伝統教育に話を移していくことにする。 2 節で述べたように、イスラーム教育はマラブー、もしくはアルファと呼ばれるイスラーム知識人によって営まれる。この地域において、マラブーの呼称は一般的にはある程度年配のクルアーンに通じた人物に対するものであるが、もう少し広義にはクルアーン学校に6-7 年間学び、クルアーン60 章の暗誦が終了したズマンデZoumandé という資格を授与された者に対する尊称である。この地方の多くの人びとがクルアーン学校出身で、日常的な宗教実践のためにズマンデを取得していることから、マラブーと呼ばれる人はそれぞれの村に相当数存在する。クルアーン教育に携わるか否かはそれぞれのマラブー次第である。 ズマンデを取得したタリベの一部はさらにクルアーンの学習を継続する。クルアーン学習の継続は、それまでにクルアーン学習を行ってきたクルアーン学校のマラブーの力量があればそのまま同じクルアーン学校に居続けることもあるが、多くのタリベはほかのクルアーン学校へと遊学する。ファカラ地方のタリベの場合、ニジェール国内、北部ナイジェリアや北部ベナンの著名なマラブーの元で学ぶケースが多いが、中にはマリに旅立つ者もいる。タリベの行先に関しては、それまで学んできたマラブーの人脈や時にタリベの父親が決定している。ズマンデを取得したのちには、クルアーンの解釈や周辺領域の習得の各資格の取得を目指すことになるが、ザルマ社会ではこれらの資格を総じてベーレBéré と呼ばれる。こうして指導者となったマラブーがクルアーン学校を営むこうした方法は、クルアーン学校をして「伝統教育」と呼んできたものの、こうした形式の学校がニジェール中に顕著にみられるようになったのは、それほど古い話ではないようだ。確かに、イスラームがこの地域に広まり始めたのが7 世紀ころであることを考えると、数百年に渡り、この地域ではイスラーム知識がマラブーから子どもへと受け継がれてきたことが考えられる。しかし、筆者の聞き取りを行った限りでは、現在の形のクルアーン学校がイスラームの伝播時期に合わせて存在したか、と言えば、これは明らかではない。Meunier は、1970 年代から1980 年代にかけて西アフリカ全体を襲った干ばつ期に、クルアーン学校は経済的な目的で設立されていった(Meunier 2009:212-213)と説明する。また、谷口(2009)は植民地期の1900 年から1922 年の現在のニジェールにあたる地域の教育政策をまとめている。ここで「クルアーン学校」の存在を仄めかすが、現在の形と同様であったか、ということは確かではない。この谷口の記述を留保するには二つの理由がある。一つは、果たしてどのような時期に農耕民であるザルマ社会に教育慣行として根付いたか明らかでないためである。商人であり宗教的職能者であった遊動的な人びとがイスラームを伝えたことは多くの歴史考証から明らかであるが(Lowis 1966、坂井 2003 等)、当時の権力者の態度如何により疎外された存在であったアウトサイダーであったムスリムが、定住社会にすぐに埋め込まれていったとは考えにくい。そしてもう一つに、谷口が指す「現ニジェール共和国」が、アラブ商人と直接的な交渉を持っていたハウサ圏とトゥアレグ圏を包含するとなると、それよりも幾分イスラーム化が遅れたと考えら れるザルマ圏とはイスラーム化の年代も異なるであろうと想定されるからである。ともあれ、ザルマ社会一般におけるクルアーン学校の成立過程は今後の検討課題とすることとし、本章ではファカラに限定して考えるにとどめておく。ファカラの中心地であるダンチャンドゥDantchandou が数代前までしか遡れない 以上、ファカラが一つの「地域」として成り立つ時間的スケールがここ100 年前後であり、この地域で現在のクルアーン学校と同様の形をとるようになったのはこの前後ではなかろうか、と仮定しておきたい。 次に、なぜ現在多くのマラブーがクルアーン学校を運営するのかということを議論しておきたい。その理由について、外国人である筆者に対して宗教的事象を世俗的に説明することは考えにくいことを差し引いても、その生活ぶりから推測するに、経済的な理由で「のみ」学校を運営しているようなマラブーはいなかったように思う。とはいえ、クルアーン学校を経営するためのノウハウや初期資本の出所という点はクルアーン学校やそれを取り巻く人びととの関係を考えるうえでも検討に値するだろう。これはクルアーン学校で教え始めた理由で最も多かったのが、父親、親類が営んでいたクルアーン学校を継いだというものであったからである。ほかにも、一部のマラブーからは、人びとから乞われて始めたという回答もあり、何らかの経済的な基盤の上に成り立っていることがわかる。 一方で、マラブーの多くは、ズマンデ取得後に更なる知識の深化を求めて、国内外の著名マラブーの元を転々と遊学するが、遊学先で早くも教育を始めるマラブーも少なからず存在する。遊学先で教育を始めることで、教え子や教え子の親など、地域外の人脈ができる。多くのマラブーはクルアーン学校を開設した土地で生徒を獲得することとなるが、多様な地域との関係性を確保することにより、より生徒を、特にタリベを安定的に獲得できるという経済的利点があるという。タリベを安定的に確保することが利点となるかは、4.1で詳述する。 先述の通り、クルアーン学校を営むマラブーは、専業の教育者であるばかりではない。西アフリカのイスラーム世界では、知識の伝達は商人であり、知識人であったマラブーたちによりイスラームが広範に浸透していった(Louis 1966、坂井 2003)。しかし、これは遊牧や通商を生業とした、移動性の高い人びとであることが前提である。それでは、農耕を主生業とするザルマ社会クルアーン学校は如何にして営まれるのだろうか。 クルアーン学校の運営には公的な助成は一切ない。時折、ムスリム富裕者が喜捨を行うものの日常的なものではない。農耕が生業の中心であるザルマ社会のクルアーン学校運営の基盤となるのは農耕である。しかし、この地域の農耕による生産性は低く、農耕によって年間の食糧を自給できる者はほぼ皆無と言っても過言ではない。通常、不足分を補うため、乾季の野菜栽培を行ったり、小商業を行ったり、出稼ぎにでるなどする。クルアーン学校の場合、マラブーがタリベを伴い、都市部に出向いてマラブタージュ5 を行い、周辺地域を巡業Wazou して祈祷の謝礼をクルアーン学校の運営費に充てる。また、4.1 で紹介するような村内のタリベの労働も重要な収入源となっている。 このように、宗教的営みと経済的営みの境界があいまいなのは、イスラーム特有であり、これは他の大宗教の宗教教育制度と比較すればこのことが際立つのである。

3. 3. クルアーン学校と公立小学校の比較

以上のように、ファカラ地方では伝統教育であるクルアーン学校と公立小学校が併存している。この2 つの学校形態がどのように違い、同じなのか。クルアーン学校と公立小学校を比較してみたいと思う。 まず、クルアーン学校と公立小学校の就学期間は類似している。双方ともに7 歳から就学することが多いようだ。公立小学校の就学年齢は当然のことながら7 歳と定められている。クルアーン学校でも、7 歳での就学が大方の目安であり、その根拠として数が数えられるかどうかが指標になると述べるマラブーが多い。また、卒業時には、小学校では小学校卒業資格が、クルアーン学校では、クルアーン全章を暗唱できるようになると、ズマンデの資格を与えられる。この資格を得るとクルアーンを教えることができ、さらに周囲の人びとから「マラブー」と呼ばれるようになる。 次にファカラ地方の学校数について表3 を参照しながらみていこう。公立小学校については先に述べた通り、48 ヵ村中24 校と2 ヵ村に1 校の割合で設置されている一方で、クルアーン学校は111 か所で、1 ヵ村あたり2校以上ある計算になる。しかし注意しておかなければならないのは、クルアーン学校はイスラームの中心的な村5 ヵ村6 に47 校が集中していることである。これらの村には、シェックCheik と呼ばれるイスラームの指導的立場に立つ人物がおり、ファカラの宗教上の中心地である。シェックの元には、すでに長年の教育経験を持つマラブーが、さらにクルアーンを学ぶために寄宿し、同時に彼らがそこに集まった数多くのタリベを対象として学校を開く、と言った例も散見される。周辺の村からこれら5 ヵ村のクルアーン学校に寄宿することは珍しいことではない。 次に、クルアーン学校の生徒の性別を確認していく。クルアーン学校に通う生徒の7 割は男子、3 割は女子と男子偏重の傾向がみられる。これは、4.1 で述べるように、男子が宗教教育を受けることを強く勧められることや農耕労働の多くが男子の役割であることで男子が重用されやすいことのほか、女子の早婚傾向によって一定期間女子が教育を受けることが難しいなど、いくつかの理由が考えられる。また、一般的にマラブーに男性が多いことから、男女の学習の場を明確に分けるクルアーン学校では、男子の方が環境になじみやすいということも考えられるだろう。しかし、この地域では10 名以上の女性マラブーの存在も確認できており、女性によるクルアーン教育の機会があることも分かった。主に婚出により、出生した村を離れてしまうことによるクルアーン学習の中断が女性のクルアーン教育を妨げる原因となっているが、女性マラブーの存在により多く母親、年配の女性が教育を受ける機会を生んでいる。 さらに、後に述べるようにクルアーン学校は孤児の受け入れを行う。イスラーム文化では父親を亡くすと孤児と呼ばれるが、少なくとも片親を亡くした子どもの中では現時点で100 人ほどがクルアーン学校に引き取られていることがわかった7。 最後に合計生徒数に目を向ければ公立小学校が2,563 人、クルアーン学校が2,383 人と表向きの生徒数には大きな差はない。しかし、これらの生徒はクルアーン学校か公立小学校か、どちらかを選択した結果ではない。先述の通り、現在のクルアーン学校の生徒にはタリベとフォンデという2 つの形式があり、特にフォンデには小学校にも通いながら夕方にクルアーン学校に通っているケースが多くみられた。

4. クルアーン学校の社会的機能 4. 1. 労働力のストック機能と村落社会

これまでに、ファカラ地方のクルアーン学校の教育機関としての機能を概観し、公教育との比較を行ってきた。本章の最後にクルアーン学校の社会的機能について明らかにしていこう。 まず、人びとの生活の中における伝統教育の位置づけ、しいてはムスリム社会における教育の位置づけに関しての誤解を避けるために、ファカラ地方の生業の特徴について今一度触れておくことにする。ファカラ地方の農耕は最初のまとまった降雨が確認された直後に播種が行われ、その後数回の除草作業が行われる。農業の機械化はほとんど進んでおらず、畜耕が一部行われるほかはほぼすべてが人力によって行われる。そのため、ファカラ地方の農耕は労働集約的で、一時に同作業が行われるために労働力は拡散する。こうした労働環境の中で、複数のタリベを抱えるクルアーン学校は労働力のストック機能を持つようになる。 村落社会において、具体的にどのようにこの機能が位置づけられるのかを見ておくことにする。 マラブーAT8 はクルアーン学校を運営しており、20 人のタリベを養っている。播種が終わり、草刈が始まった7 月、マラブーAT の畑には、このうち13 人のタリベがマラブーAT の所有する耕地で草刈に精を出していた。 マラブーAT にほかのタリベの行方を確認したところ、5 人はそれぞれに村外へ用事を足しに、そして2 人が村の人の畑の手伝いを行っていた。この2人のタリベはそれぞれ1日1,000フラン(約200 円)の報酬を得ている。その後、報酬額について他のマラブーに対しても聞き取りを行ったが、一律1,000 フランとの回答を得た。つまり、どのクルアーン学校も同じ価格でタリベを農作業に派遣していることがわかる。賃金のやり取りは依頼主とマラブーの間でなされ、賃金は直接マラブーに支払われ、タリベの管理はマラブーにより行われている。 労働力としてのタリベの位置づけを示す事例をもう一つ紹介する。 クルアーン学校の中には、タリベの預け入れに際し、親との間に「契約contrat」を結ぶことがある。クルアーン学校と家庭の間のトラブルを避けるためであり、タリベ、もしくは家庭内における子どもの労働価値の高さがこのようなところからも見てとることができる。マラブーSA のクルアーン学校では、タリベの受け入れに際し、タリベの親との間に二種類のうちいずれかの契約を親と取り交わしている。一つ目の契約形態はタリベを1 年中マラブーの元に置くというもの、もう一つは雨季にタリベを親元に帰す契約である。天水農業に頼るファカラ地方の農村では、雨季の一定の時期に集中して、労働集約的な作業が必要となる。この時期、クルアーン学校も各家庭も労働力は少しでも必要な時期であるため、あらかじめこのような約束事を交わしておくのである。 このように労働力をプールしているクルアーン学校といえども、マラブー自身が広大な耕地を持っていることが多く、時にさらに労働力を必要とすることがある。 2012 年の播種期に発生したバッタ害により、マラブーAD の耕地では播種したミレットが全滅したため、ササゲ豆やオゼイユなど、耕作期間が短く、病虫害に強い作物への植え替えが行われた。作業の遅れにより、収穫が大きく変わるサーヘルでは、一時に農作業を終える必要がある。特に、このケースではその年の作況を大きく左右する場面であり、喫緊を要する事態であったことは誰にも理解できた。こうした中、この畑を通りかかった二人の男性が無償で労働提供した。マラブーは時折、他の村民に対して経済的に苦しいときには無償でタリベを派遣することがあり、彼ら は、その代償であることを述べた。この挿話から、クルアーン学校が所属する社会との間に相互扶助的な関係性が結ばれていることがわかる。 こうしたタリベの労働は、クルアーン学校の運営を助ける経済的側面ばかりでなく、宗教教育的側面でも重要な習得項目である。すなわち、タリベが将来所属する社会の中において生きていくための術、つまり、ファカラ地方の場合でいえば、農耕や牧畜を労働への参加から習得し、正しいムスリムになるための術を学ぶ機会でもあると説明される。このように、クルアーン学校と村の社会の間に労働の相互扶助の関係があり、クルアーン学校がザルマ農村社会の中では教育機関という枠組みだけでは捉えられないことがわかる。

4. 2. クルアーン学校の社会福祉的機能 クルアーン学校のもう一つの重要な機能として、子どもたちのセーフティネットとしての役割がある。この側面について、クルアーン学校の二つの機能が見られた。一つ目の機能は孤児の受け入れである。3.3でも述べたように、イスラーム定義上、父親と死別もしくは両親が離婚し母親に引き取られた子どもが孤児とされる。ザルマ社会においても、相続が父系をたどるため、離別した女性は実家に身を寄せるなどして生活はかろうじて保たれるものの、その生活は易しくはない。こうして何らかの形で生活が難しくなった子どもを、マラブーは引き取るケースが数多く見られた。女性マラブーのAG は、「親がいなくなり、行先のない子を受け入れるのもマラブーの仕事である」と述べ、マラブーやクルアーン学校の宗教組織(者)としてもつ救済機能を強調する。 もう一つの福祉的機能が小学校教育をドロップアウトする生徒の受け皿としての役割である。マラブーHM は彼がクルアーン学校を始めた理由として、西欧式の学校を辞めた生徒から懇願されたことを挙げる。そして、マラブーHM はこうした生徒たちを中心に教えてきたという。親側からも次のような語りがあった。小学校をドロップアウトし、現在はクルアーン学校に通う7 歳の少年の父親は、子どもが小学校に就学した年1 年間を出稼ぎ先で過ごしたが、帰村した際、子どもは進級試験を不合格となり、学校に行くことを拒否するようになったと語る。そのため、子どもを小学校に通わせることを断念し、クルアーン学校に入れたという。つまり、小学校を中退し、所属する教育の場を失った子どもたちのオルターナティブとしてのクルアーン学校、という位置づけも見られるようになっているのである。

5. まとめ 本章では、ニジェール共和国ザルマ社会における伝統教育機関であるクルアーン学校の現状と社会的機能について論じた。クルアーン学校はザルマ社会のイスラーム教育であると同時に、この社会に埋め込まれたいくつかの機能を持つことを明らかにできたと思う。 まず、近年急速に普及する公教育との比較から、現在でもクルアーン学校がザルマ社会の重要な教育機関であり続けることがわかった。クルアーン学校の教育機関としての機能のほか、次の2 点の社会的機能が指摘できる。一つは農村社会における労働力のストック機能であり、二つ目に社会的セーフティネットとしての機能である。こうしたクルアーン学校の事例から見えるのは、アフリカにおいて「伝統」教育は社会に埋め込まれた仕組みであり、当該社会の文化、生業に関わる多様な機能を併せ持つという特色が指摘できるだろう。

1 7 世紀頃よりアラブ、イスラーム世界で成立したイスラーム教育機関。現代ニジェールにおいては、公立・私立のマドラッサがあり、アラビア語の専門教育を行う。学位は大学と同じ学位Diplom を発行できる。 2 コーラン教育と近代教育を折衷した学校。近年、近代教育の要請からフランコ- アラブが増加する傾向にある。 3 CP1 =小学校1 年生、CP2 =小学校2 年生、以下小学校6 年生までに相当。 4 教室数は2 部屋、3 部屋の小学校が大多数で、午前- 午後に分割、もしくは2 年に一度の入学として対応している学校が見られた。 5 Maraboutage。祈祷や結婚、葬祭などの宗教儀礼を司る「マラブー仕事」。 6 ファカラ地域では次の5 ヵ村に大マラブー(Grand Marabous もしくはシェックCheik)と呼ばれるマラブーがおり、この地域のイスラームの中心をなす。Kida Baza Gayze【13】Banizoumbou【12】Garbey Tombo【10】Kallasi【 8】Dantchandou【4】(【】内はマラブー/ クルアーン学校の数を示している) 7 孤児とクルアーン学校に関しては調査中盤で把握できたことであり、さらに精度を高めた調査を今後の課題としたい。 8 現在、西アフリカ諸国では、マラブーとタリベの間の関係性が社会問題を生んでいると考えられているため、筆者の判断によりマラブーの氏名をイニシャルで「マラブーAB」のように標記している。

参考文献 Depar tment de Kol lo Commune Rural de Dantchandou, 2009, “Plan de DeveloppementCommunal” ヘネップ, アーノルド・ファン、1909(1977)、『通過儀礼』綾部恒雄、綾部裕子(訳)弘文堂。 伊東未来、2009、「イスラーム「聖者」概念再考への一考察―マリ共和国ジェンネのAlfa を事例 に」大阪大学大学院人間科学研究科『年報人間科学』第30 号 83-100。 片倉もとこ、2008、『イスラームの世界観 「移動文化」を考える』岩波現代文庫。 小馬徹、1992、「第六章 アフリカの教育」日野舜也(編)『アフリカの文化と社会』勁草書房。 Lewis, I.M., 1966, “Islam in Tropical Africa”, IndianaUniversity Press. Meunier, Olivier, 2009, “Variations et diversitéséducatives au Niger”, L’Harmattan. Ministre des Finances, Institut National de la Statistique, 2011, “Annuaire Statistique 2006-2010”. 坂井信三、2003、『イスラームと商業の歴史人類学 西アフリカの交易と知識のネットワーク』 世界思想社 竹ノ下祐二、亀井伸孝、阿毛香絵、清水貴夫、澤村信英、2013、「〈第50 回 日本アフリカ学会学術大 会「アフリカ子ども学フォーラム」報告〉「アフリカ子ども学」フォーラム:フランコフォン・アフリカの学校教育と「伝統」教育」、『アフリカ研究』日本アフリカ学会(近刊)。谷口利律、2009、「仏領西アフリカにおける植民地教育の導入―1900 年-1922 年の現ニジェール共和国を中心に―」『早稲田大学大学院教育学研究科紀要 別冊』16 号 2 pp.161-171。

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